聖地バラナシ2 ~死んだ物にすること。生きる者がすること。 [インド 観光名所]
「ガンジスで大晦日」の日。ガンジス川 川縁のヒンドゥー教の聖地 バラナシでの話。
ガンジス川の川縁には、たくさんの「ガート」と呼ばれる、お祈りの場兼、洗濯場兼、屋台兼、くつろぎの場があります。
写真手前のように、ただ階段状になっているところもあり、奥のように、桟橋状になっているところもあり、大きさも大小様々。
ここで人々は、思い思いに、沐浴したり、洗濯したり、歯を磨いたりしているのです。
そんなガートのひとつ、「マルカルニカー・ガート」。ここには、大きな火葬場があります。
近づいてみると、綺麗な布にくるまれた、「元人間だったモノ」が置いてあります。(写真自粛)
「元人間だったモノ」の回りは神聖な薪が積まれ、少し離れて、家族・友人たちが、悲しそうに、清々したように囲んでいます。
ヒンドゥー教という宗教は、「人という者が生きているのは、修行の場であり、生きている間にしたことによって、だんだんと階層(カースト)が上がっていく。そして、最後にはブラフマン(宇宙生命体)と一体になる事が出来る。それを目指して、人という者は生きていくのだ。」というものです。
そして、「死んだ後、身体をガンジス川に流す」ということにより、「次の人生はもっと上のカーストに生まれ変わることが出来る」ということが信じられているため、このガートには全インド中から死体が送られてきて、24時間体制で火葬が行われているわけです。
あるモノは車で、あるモノは担架で、あるモノは電車で。
(電車やバスの貨物室や屋根の上にのっけることは日常茶飯事。)
こうやって、ひとつの修行を終了し、新たな修行の場へと旅立っていくモノを送り出す家族や友人は、最初は一時の別れを惜しんで涙を流しますが、その後、新たな門出を祝して、清々としたどことなく嬉しそうな顔をしています。
そうこうしているうちに、モノの回りに薪が積まれ、シヴァ神から授かった聖なる炎が、薪にともされます。
じりじりと、焦げながら燃えていくモノ。
布が焼け落ちて、だんだん中が出てきます。
ブスブスと煙を出しながら、だんだんと、黒く、小さくなっていきます。
火が収まったあと、残った物は、集めて袋に入れられ、おっさんの手によって、ぽーんとガンジスの川の中にほおりこまれます。
もう、完全に、「物」です。
人間は、シヴァ神の炎に焼かれる事により、カルマをそぎ落とし、ピュアな「物」となるのです。
ちなみに、赤子や妊娠した女性の死体は、シヴァ神の炎なしでもピュアな「物」であるため、そのまま石にくくりつけられて沈められるそうです。
「死」が「生」の終着点である我々にとって、「死」が「生」のひとつのチェックポイントでしかない彼らの思考は、相容れない物であり、ある意味うらやましいような気がします。
なぜなら、希望を持って、死を迎えられるから。
さて、なんで、もりぞおさんが、こんなうんちくを知っているかというと、ここを訪れたときに、わらわらと寄ってきて、勝手に1時間ぐらい説明をしたガキの話を覚えていたからです。
まだ7歳くらいのガキなのに、最初はたどたどしい日本語で、途中からNOVA Level4のもりぞおさんよりも流暢な英語で、延々と説明をしてくれます。
両親の多大な投資を受け、早期英才教育を受けた日本のガキでも、しょうもない英語の歌を歌えるだけなのに、食う物も食えずにやせ細ったインドのガキは、第一外国語はもちろん、第二外国語までマスターしつつあるのです。人が生きるためにする事は、これほどまでに力強い。
非常に軽く扱われる「死」と、恐るべき「生」のための力。
そんなコントラストが素敵な、ガンジスの河辺でした。
ちなみに、このガイドに感心したもりぞおさんは100ルピー(300円)くらいチップをやろうと思ったのですが、向こうから「私はシヴァ神に仕える僧侶だ。おまえの幸運を祈ってあそこで聖なる薪を燃やしてやるから、薪代300ルピー払え」などといいくさるので、10ルピー(30円)やって帰りました。
帰る道すがら、後ろから追っかけてきて、罵声を浴びせてきます。
「バーカ、バーカ、ニホンジン!!ビンボーーー!!!」
おめーら、日本語、勉強しすぎ。。。
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